8月8日から11日

8日
学会一日目。いろいろと聞いて考える。竹中先生@香川大の講演は、結構勉強になった。懇親会。マグロの解体やってた。その後、鳥取に戻り、院生時代の同級生&後輩と飲み。彼らと話をすることができたのが何より学会に参加して良かったと思えることかも。真面目な話を飲みながらする、っていいな。その後、明日の発表の練習(眠かったぁ)。

9日
学会二日目。朝一で、発表。と言っても、発表自体は田頭先生@広大なので、私は最初に資料配って、タイムキーパー的な役割。発表は無事に終了。とりあえず、ありがたい質問もあったし、今後もう少し詰めていく余地はあるものなので、頑張れそう。発表はしてもらったので、論文化は私だそうです(泣)。

帰りの特急も学会列車。なんか恐い。後々知ったことだけど、大雨の影響が1本遅い特急から出たらしい。思いっきり、美作や佐用を縦断している路線だったからなぁ。それにしても、ここ数年の天候は変だなぁと。

10日
会議。お勉強。
メディア部門の補佐員さん歓送迎会@ベトナム料理。

11日
メディア定例。お引越しお手伝い。

2007.10.16(広大英語教育学会設立総会@広島大学の備忘録)

いちいちこんなことを備忘録に残さなくてもいいのかもしれないけど、以前「広大英語教育学会が一応の幕を閉じ、区切りを迎えた」という備忘録を書いたので、その後の話ということで、ここに記録しておくことにします。
<簡単な背景>
広大の教育学部と学校教育学部が統合した。それで、それぞれが持っていた学会を統合させよう、という話になった。統合の際、『同窓会組織』を強調して、現在の学科名を反映させて、「広大英語文化教育学会」とする、となった。
「英語教育」の名が消えたこと、同窓会組織であること、から、このままではいかんのではないか、という声が上がった。また、「英語文化教育学会」の方も動きが全くない。そこで、「広大英語教育学会」を復活させようではないか、との声が上がった訳である。
広島大学英語教育学会 設立総会>
ということで、広大英語教育学会が学術組織として新たなスタートを切ることに賛同した有志での設立総会が13日の午前中にあった。参加は20数名だった が、入会希望者は100人程度と結構な数にのぼった。発起人代表の人徳もさることながら、その趣意を十分にくんで、入会を希望されたのだと思うとすごい なぁと感じる。
今日は会則の提案と承認を行った。そこでは、香川大の竹中先生が、非常に細やかな指摘を数多くなさり、凄さを改めて感じ る。会則一つとっても学会を運営することの重要性を再確認させられる。院生の頃は(今でもそうかもしれないけど)、総会なんて、行っても行かなくても一 緒、って思ってたからなぁ…。
続いて、松村先生の講話があった。お話の中では、広大英語教育学会がどのように立ち上がり、そしてどのような歴史をたどっ たのかに触れられた。今日、ここに来ていた先生方や学生さんは、松村先生が垣田先生たちと黒板の前で写真を撮ったのと同じような瞬間に立ち会ったというこ とだろう(言いすぎ?)。
自分なんかがいてもいなくても一緒だろうとは思ったが、あの空気の中にいることはとても重要な気はした。「ちゃんと教育実践・研究をしたい」が共通理念なんだな、と改めて。
お昼ごはんを食べつつ、事業内容の提案などを聞く。JACETがやってるセミナーのようなものや、関西英語教育学会がやっ ている卒論・修論発表会などのアイデアがでる。その中の一つに、「オンライン特研」があった。これは絶対恐いと思う。モニターの前で泣くこと必至だろう なぁ…。
私自身は、いわゆる「高外や教英の古きよき時代の人間」ではない。院生の質の低下が嘆かれた時代の人間なので、非常につら い。少しだけだけど、学部4年ごろから修士ごろに、「古きよき時代の人間」の様子を見ることができた。そういう意味では、自分の質の低さには自覚的である と思うし、どうあったらいいのかについては、ある程度理解できているつもりである。だからこそ、今回の学会設立に賛同したし、総会にも出席したということ で…。
何ができるか分からないけど、頑張ってみたいと思う。漠たる感想で申し訳ないけど。
広島大学英語文化教育学会 (未)設立総会>
午後の方は、同窓会組織の設立総会…にしたかったみたいだけど、つまづいた。総会自体が成立しなかったから。
というのも、ルール違反が多すぎたから。学部生にとっては、「何をやってるの?」って空気だったろうけど…。会則の了承が終わってから理事やら会長やらが決まるのに、理事が会則を決めて、理事が持って帰って練り直すってのは誰の目にも明らかなルール違反なんだけどなぁ。
賛同する人だけ入ればいい、って卒業生や修了生がみんな入る同窓会組織である訳だから、そこでも矛盾が出てたり。
物事には順番や筋があって、それを通さなかったらいけんよぉってことだと思う。ホントそれだけ。
でも、シンポジウムでは、「同窓会から学術へ」と何度も繰り返しておられたのが不思議に思った。同窓会組織から学術組織に鞍替えを考えてるのだろうか?
「純然たる同窓会組織で、年に一回OB・OG会がありますよ、その時に教育実践に役立つシンポなんかもありますよ」で十分 だと思うんだけどなぁ。最近ホームカミングデーとか設定している大学も多いし、そういうことを円滑に進める組織として、一つの重要な機能は果たせると思う けどなぁ、と。
むきになる意味がよく分らん。外部の方々にとってはお家騒動ってとこなんだろうなぁ。お恥ずかしい。
(16.10.2007)

2007.02.17(『e-Link国際シンポジウム 英語教育の最前線』@関西大学の備忘録)

関大大学の教員養成GP事業の一環として、2日間に渡って開催されたシンポジウムに参加しました。初日のみの参加でしたが、非常に盛況でした。ぼんやり思ったことなどをメモ書き程度に記しておきます。
<モーニングセッション>
Dr. Barkhuizen(University of Auckland)によって、教員養成におけるstory/narrativeの役割を事例を用いて説明された。
教員養成において、ジャーナルを書かせたり、記録をつけることはよくなされているようであるが、それをどう切り取っていく かという視点の提供と理解した。storyは、時間・場所・個人と社会との関係という3次元があるとし、そこに3つのstory(story/Story /STORYと順に個人度が下がり客観度が上がる)を重ね合わせたものを道具として提案していた。
実際の授業でstoryを書かせたものを分析し、どのような部分のところを書いているかを例示してくれた。
昼休みに先輩たちと食事をしていた時に話があがったが、「こんな風に分析できます」はいいんだけど、「それをどっちへ持って行くのか」や「どうしたいのか」については触れられていなかったことが課題点としてあがるだろう。
教員養成系の大学や大学院では、現職や学生がこうした自分の考えや経験を文字にすることが多くあるとは思う。それを分析する教員や、共有する現職や学生が、どこに向かっているのかをしっかりと考えておかないと文章の集まりにしかならない。その意味では、Dr. Barkhuizen自身の授業では、「何のために」書かせているのか、が知りたくなった。
<基調講演>
Dr. Gu(Victoria University of Wellington)によるstrategy-based instructionの事例研究があった。Language Learner Strategyは有効であるとのことから、それらを小学生に教えたらどうなるか、という実験研究。結果から言えば、教えたらいいよ、ってことだったが。
strategyは、「問題点を把握し、適切な方略を選択、実行した後、その結果を評価し、うまくいかなければ再度挑戦するか保留するかを決める」という一連の「プロセス」であるとした。
プロセスを教えるって難しくない?という第一印象がまずあった。それから、good learnersには、strategyのorchestrationがあるということであったが、それをどう扱うのか、というところは不明のままであった(質疑応答の時にも突かれていた点)。
「strategyを教える」ってやっぱり、「こんなんありますよ」って感じの単品料理を出すという印象がぬぐえないのだ けど…。orchestrationはやっぱり、どういう食い合わせで定食を作り上げると、上手くいくのかってことになるんだろうけど、その辺は難しいの かなぁ。自分の分野とかでも思うことではあるけど、○○指導研究ってのはやっぱり難しいなぁと感じました。
<研究発表>
音声系の発表があり(実はこれが目当ての一つでもあったのだけど)、それを中心に。
intelligibility研究ってことで、ネイティブに音声をディクテーションさせる。文脈ありとなしでやるとありの方が当然高い。で、単語のどういった発音の誤りがintelligibilityスコアを下げるかということを調べたもの。
先行研究でもあがっていたDerwing & Munro(1999)のduplicationと考えてもよい感じ。単語の聞き取りをさせていたので、prosodicの側面が今ひとつ扱えていない (語アクセントの誤りが指摘されてはいたが、prosodicと呼んでよいものかどうかは疑問)。
<Rod Ellisによる講演>
corrective feedbackについてのお話。多くの先行研究から、corrective feedbackに関する課題や問題を提示し、今後考慮すべき社会文化的側面などについても解説、たたき台としてのcorrective feedbackに関してのガイドラインを提示した。それを検証、確認することが大事と念を押しておられた。
SLAとpedagogyを分けて発表内容を組み立てていたのだが、相当に明確にしていたかったようで、何度も出てきた。分けること自体に何の不思議も感じないが、何度も繰り返された点は、少し気になる。
(19.02.2007)

2006.03.11(第28回広大英語教育学会の備忘録)

広成ビルにて行われた広大英語教育学会に参加しました。いろんな意味で節目というか切れ目というかそんな感じになってしまったので、備忘録を。
<節目その1 ~総会~>
学部の統合に伴い、それぞれが運営していた学会を統合するという話で、ここ数年議論が起こっていた。それに一応の決着をつけようということではあったが、 事務局から提示された資料には「同窓会組織」の文字が。「学会」の統合ではなかったっけ?と思いつつ、説明を聞くとやはり「同窓会組織」としての統合とい うことを強調される。
「同窓会組織」に「学会」の冠はいらんでしょー、改組はよくある話(になってしまっている)だから、組織名を反映させるのはどうか、という至極まっとうな指摘に、何も答えぬ事務局…。
うーん、どうなんだろう。前回議論をしたとされる時に同席できず(同席していたとしても発言などできていなかったろうが…)、かつハガキによる投票もしなかった自分がこのようなことを書くのは良くないのだろうとは思うが。
ともかくも、これにて「広大英語教育学会」が幕を閉じた。でもって、「学会」も幕を閉じた、ってことなんだろう。節目 その1であった。少ししか参加してないが、ここで発表することは恐ろしく勇気のいることだということ、結局発表もせず終わってしまったこと、情けなくも思 う。
<節目その2 ~三浦先生の講演~>
広大英語教育学会が幕を閉じるのと時を同じくして、という訳ではなかったかもしれないが、また一つ大きな節目を迎えた。三浦先生の定年退職である。
えらそげに自分の業績を自分でたたえる講演ではなく、今までの方々のお陰で我々はいるんだということを改めて感じさせてくれる講演だった。
最終講義に行けなかったので、この話を初めて聞いたが、ほっこりする講演だった。と、同時にとてつもなく寂しくもなった。
くしくも祝賀会のスピーチで、「分家」、「出家」という言葉が出たが、分家・出家した研究者が、今後をしっかりと歩んでいかなければならないのだ、と意を堅くされた先生がたくさんいるだろう。(17.03.2006)

2004.03.08(広島CALL研究会の参加備忘録)

昨年の修了以来の広大。大学へ向かう道路が広くなってるところなんかで感慨…。と、そんなことは置いておいて、広島CALL研究会に参加してきた。
何はともあれ、玉井健先生によるワークショップ「シャドーイングとリスニングの関わりについての検討と授業への応用」 を目当てに参加したのだ。近年英語教育において、シャドーイングの重要性が声高に叫ばれ、「知らぬ間に」旗振り役のようになってしまっていた、と玉井先生 は語っていた。
そもそも同時通訳の訓練技法が中高大の英語教育において用いられる際、「シャドーイングは何に効き、どう用いればいい のか」という点について分かりやすく説明されていた。ワークショップの前半は、「シャドーイングとリスニングの関わり」を実証研究を幾つか紹介しながら説 明し、後半は実際のシャドーイングの指導法を体験する、という形式であった。
(前半)シャドーイングは教師、生徒の両方が向上の実感を伴っているにもかかわらず、聴解力テストのスコアには現れてこない。それでは、シャドーイングはどこに働きかけているのか?という疑問から、玉井先生はいくつかの実証研究を行っていた。
シャドーイングの指導前、指導後のリスニング力を検討したところ、習熟度下位群において急激な伸びが見られた。上位 群、中位群にはそれほどの伸びが見られないことから、シャドーイングの効果は、上位群、中位群が既に持っている能力部分に効いているのではないか、と推測 した。
その推測を基に、聴解過程におけるワーキングメモリの働きを検討した結果、シャドーイングは入力された情報に対しての 「音韻分析」のレベルに特に働きかけている、と考えられた。一方、いわゆるリスニングテストの類は、音韻分析や統語分析を経た後、「意味分析や文脈分析」 のレベルに焦点化されているものである、と考えられ、それであればシャドーイングとリスニングテストとの直接的な関連は少ないと考えても不思議ではない、 とされた。
では、シャドーイングと「音韻分析」のレベルとの関連はどのようになっているのか、という点について、発話速度、メモ リスパン、復唱力という観点から考察を加えた。メモリスパンに関しては、第二言語ということもあってか、特に変化は見られなかった。しかし、発話速度、復 唱力に関しては、指導前、指導後において向上が見られ、シャドーイングの効いている領域と考えられる。
では、発話速度や復唱力というのは何を意味するのか、というと、音韻の記憶の中に、英語の音韻構造(要素)が蓄積され ていることを示していると言えるであろう。特に、音声の中でもプロソディックな側面の情報が蓄積されていると言えそうである。シャドーイングがこうした側 面にタップしているということは、リスニング能力に対しても深く関わっていると主張していた(し、私も賛成です)。
学習者の実感としても、アンケート調査から、プロソディに関する改善がなされた、発話速度などの運動側面の改善がなさ れた、と実感している。さらには、結果として、リスニング自体への意識が改善されたと実感しているようである。(ここは質疑応答で、「聞き方に関する改 善」を大きく捉えるべきではないか、という質問があったが、私はこの項目はより大きな側面のものであると捉え、シャドーイングと「音韻分析」の観点からは 前者2つを、その結果として後者が成果として表れた、と理解したい)
(後半)前半での情報を基に、後半では具体的な指導法について説明がなされた。形態として、1)シャドーイング、2)ディレイド・シャドーイング、3)リテンション、4)リプロダクション、があるとされた。
1)シャドーイングにも、音声に意識をおいたプロソディ・シャドーイング、意味に意識をおいたコンテンツ・シャドーイ ングがあるとされ、慣れるまでは前者に集中させるのもよいとされた。さらには、頭の中でシャドーイングを行うサイレント・シャドーイングもこの中に入れら れた。2)は再生の開始を少しずらして行うものであり、上級者がクラスの中に存在する場合にはこれを適用して、難易を調整する方法もあるとされた。
3)は、始業時に教師が英語でスピーチをし、それをプレーズごとにリピートする、という活動が紹介された。オーラル・ディクテーション、リピーティングと実質上同じものであるとも説明された。4)は、一定量の談話を聞き、それと同等の内容を再生するもの、と説明された。
1)から4)へと順に、内容が重視され、再生の忠実度が下がっていることがうかがえる。
シャドーイングと併用される活動として、1)シンクロ・リーディング/パラレル・リーデ
ィング、2)スピード・リーディング、3)サイト・トランスレーション、4)サマライゼーション、があげられた。
1)は、音声のみでなく、テキストを見ながらのシャドーイングのことで、これならば多少速いものでもシャドーイングの 実施が可能になる、とのこと。2)はとにかく速く読む、という活動で、これよりも教材の実際のスピードが速い場合は1)に戻るなどの構音活動に時間を割く 方がよいとされた。3)は、フレーズごとに翻訳する活動である。4)は、(言語を問わず)内容の要約を行うことである。
これらの活動は、シャドウイングと同様に話題になっている、千田潤一氏らによるトレーニングと重なっていることが分かる。
留意点として、5つが挙げられた。それらは、1)情意的側面への配慮、2)タスクの単純化、3)スピードへの配慮、4)教材の性格を目的別に分類、5)パフォーマンスのフィードバック、である。
1)は、シャドーイングという活動が「聞きつつ再生する」というものであるため、特に初学者への配慮が必要ということ である。それに伴い、2)では、プロソディ・シャドーイングからコンテンツ・シャドーイングへというタスクの移行が考えられる。また、3)スピードに対し ても、学習者のレベルに応じて配慮が必要であるとした。とは言え、オーセンティックなものであることは強調されていた。5)のフィードバックについては、 特にプロソディックな側面への教師から、あるいは学習者同士のフィードバックは重要であると述べられた。
5)に関して、評価について話をされたのは、「チェックポイント法」とされるものである。原音声をどの程度再現できた かをチェックするもので、原文テキスト中70箇所程度のチェックポイントを決めておき、それらが多く再生できていればシャドーイングスキルが十分であると いうものである。これはあくまで、復唱能力を測定しており、意味理解を測定しているという類のものであることは押さえておかなければならない。
個人的に気になったのは、評価法としてプロソディックな側面をどう確立させるか、という点であった。ワークショップや 上のまとめから分かることは、プロソディックな側面の評価は、教師からのフィードバック、学習者同士のフィードバックによってなされる。具体的に「どのよ うに」となると、どうしても主観的な形になるのではないだろうか、と考えた。音声分析ソフトなどを使用して、原音と学習者との(相似的)一致度を見る、な どはできないだろうか、と考えてみたりもした。
うまくまとめたかどうかは甚だ怪しいですが、とりあえずのまとめとして記しておきました。(09.03.2004)

2003.06.22(達人セミナー(姫路)参加備忘録)

これまで広島や福山での達人セミナーに参加したが、この度は初めて姫路での達人セミナーに参加した。全体を通しての印象は、ワークショップ色の強い感じ、というものであった(ワークショップと書いてあるから当然と言えば当然なのですが…)。
まずは定番の谷口先生の授業のバージョンアップから始まった。これまでの広島や福山でのものと同じだなぁと思っていた ら、音読のさせ方などにおいてTOIECのやり方を踏襲したもの(音読筆写)を取り入れていたりして、谷口先生自身がバージョンアップされていたのは良い かと思われた。それにしても、音読ブームはかなり根強い感じがした。
続いては姫路の中学校のALT2人組によるワークショップであった。英語を使う環境づくり、というテーマで簡単にでき るアクティビティなどを紹介していた。本人が小学校の算数で使ったという”Around the world”というタスクを英語に応用したものを紹介して下さった。生徒2人に対してフラッシュカードを提示し、その語の過去形(や進行形、その他バリ エーションは可)を早く言えた生徒が勝ちとなる。勝った生徒は、そのまま一列ずれて次の生徒と対戦する。これを続けて、一番多く勝った生徒(つまりたくさ ん列をずれた生徒)が優勝、といった感じのゲームである(文章でうまく説明できているかが非常に怪しいですが…)。ALTが自身の経験を振り返り、その中 で英語学習に使えるものを応用している、という事実を目の当たりにし、やはり真摯なALTもいるものだと不謹慎かもしれないが感心しました。その他教室で 英語を多く使う上でのチップを幾つか紹介して下さいました。
午後からのセッションでは稲岡先生によるパワフルなワークショップが行われた。チャンツを使った過去形、過去進行形の 導入は実にパワフルであった。学生にそれと気付かない間に入力が行われてしまっている、という感じであった。その後、自身の子どもの頃の写真を見せ、過去 形を「きちんと(?)」導入する。その後、その文を使わせて自分のことを話させるという流れであった。するすると流れる展開は文法事項を習っている、とい う自覚を忘れさせてくれるのではないであろうか。また、自分のことを話させるために、ALTの協力を得、簡単なテレビ番組を作り、それを入力の補助として いた点も自然な流れの一つであった。
次のセッションは姫路では恒例となっているポトラックセミナーであった。希望者がアイデアをシェアするというものであ る。英語でうたを歌うのが好き、とギターをもって英語の数えうたを紹介して下さったり、英語のことわざカルタを紹介して下さったりした。単純な感想だが、 「色んな先生がいるもんやなぁ」という感じであった。
最後は広島の道面先生のセッションが行われた。中3の教科書にあるテレビレポーターとリサイクルマーケットの客とのイ ンタビューを改編してスキットを作る作業を参加者に追体験させた。ペア作りは英語ことわざの上の句と下の句を探し出して決めさせた。道面先生が実物を買い 物袋に入れ、それらを使って「何を買いましたか」などを問わせ、オチのあるスキットを作るというものだった。関西人の血が騒いでいるのか皆真剣に作ってい た。発表の時間には、英語教員なので英語はある程度当然なのだが、その演技力というか笑いを作ろうと必死になっている姿には圧倒された。
とかくいう私のペアでも「結構面白いですよねぇ」と私のアイデアが採用されたが、時間切れにより発表の機会がなかった。最後に道面先生の教え子はどうやったか見てみようと、ビデオを見たところ、私のアイデアとかぶってた…。私、中3レベルでした…。
その他、やはり音読練習に力を入れている様子がうかがえたし、速読訓練もさせているとのことであった。それらは、今ま での発表者と重なるものであった。道面先生の実践によって、朝から行われていた色々なワークショップが束ねられたという印象を受けた。それから、よく谷口 先生が言われていることであるが、伏線をはる、あるいは「流れを作る」という活動もいずれの実践にも共通していた点であった。
これを書いている今日現在では、とりあえず音読のやり方にバラエティを持たせることができた、という意味で有意義であった。伏線をはる、流れを作る、という点についてはまだまだ修行が足りないようである。(22.06.2003)

2003.04.19(NHK教育での「わくわく授業-わたしの教え方」を見て、の感想)

4月17日にNHK教育にて放送された「わくわく英語授業‐私の教え方‐」(田尻悟郎先生編)、『「5分刻み」で英語が好きになる』をみての備忘録を記すことにします。これまで通り、完全に個人的な備忘録であり、感想であるという点を了解して頂ければと思います。(http://www.nhk.or.jp/wakuwaku/

田尻悟郎先生の授業を流れに沿って見てゆき、その際の「5分刻み」に焦点を当てた番組構成となっていた。授業の流れは、以下の通り。
60秒クイズ(日本語→英語を1分でいくつ言えるか)(5分)
書き取り(最後に言った文を書き取る)(5分)
フォニックスカルタ取り(5分)
Small talk(立場を決めて自分の意見を述べる)(35分)
英会話(Small talkに教員も混じり意見を交換)

最初に私見を述べると、NHKが「5分刻み」を大きくフィーチャーしたのはポイントがずれているのではないかと思いました。理由を以下で述べたいと思いま す。番組中、田尻先生が強調していた点は、英語は体育や音楽と同じ実技教科であり、練習しながら身に付けるものである、というものでした。運動と全く同じ で、ダラダラと反復練習をするよりも、目的意識を持って短時間でも集中して練習するのが必要になります(筋トレしながら、どの筋肉を鍛えているかを意識し ているかのように?)。そうなると、必然的に5分という程度の時間が一つ一つの活動(と言うより練習メニュー)には丁度よい程度になります。これは、順番 的に5分が先にきたのではない、ということを意味します。例えば、「今の子どもたちは辛抱する力がないから、5分ぐらいがいい」というものとは異質のもの ではないか、ということです。
長い目で学生の能力伸長を捉え、その中でsmall stepsを位置付けていく、とも先生は述べていました。5分1セットの活動は、そうしたstepの一段なのだという自覚が教師、学生ともに必要だということを表していたんだと思います。
それから、環境作りにこだわっていた点、動機付けにこだわっていた点も興味深かったです。「音楽室や美術室に来るよう に、英語の部屋に来る」という言葉は機材にお金を掛けたLL教室よりも動機付けが高いのではないかと思わされました(あ、まぁ機械系が苦手なのもあります が…)。
もう一つ、注目して見たのは、「自学ノート」を継続して行っていることでした。先生の著作や院生時代の後輩の方をみよ うみまねで、非常勤先などで「自学ノート」(もどき)をやっていただけに、非常に興味深く見れました。ノートへのちょっとした一言は学生に響いているの は、分っちゃいるけどそうはできないことだと思います。日々のコミュニケーションが現れているんでしょう。
一つ考えさせられたのは、こうした「とびっきりの授業(NHKホームページより)」を見るのはもちろん興味深いのです が、ここに至るまでの道のり(あるいは試行錯誤)が見たいなぁと思ったことです。田尻先生がこうした授業に行き着いた経緯、考えの道のり、などです。ある いは、田尻先生(他、とびっきりの授業をする先生)のもとにやってくる教育実習生が格闘するドキュメンタリーとか…。要するに、過程が見たい、追体験した い、ということなのかもしれません。(19.04.2003)

2003.04.13(勉強会@京都の備忘録)

イギリスで知り合った人々とちょっとした勉強会をしようということになり、京都で集まりました。その時の発表で感じたことなどを少し書いてみたいと思いま す。大半は勉強会中に言ったことだろうとは思いますが、一応記しておきます。当事者の方々からは、異論、反論などをお寄せ頂ければ、HP上で議論ができる のではないかと楽しみにしております。もちろん私の発表に関してのコメントもお待ちしております。

麗澤大学大学院の田中彰さん
田中さんは、「文末のイントネーション: 機能と場面」と題して、博士論文の構想を提示した。日本語のイントネーション研究においては、文末音調と助詞を合わせて考察しているものが多い。そこで、 それらを分離できるよう、数多くの文例(つまりコーパス)に当たり音調の機能とその場面を明らかにするものである(と私は理解しましたが…)。
勉強会中にも発言した点ですが、やはり「場面」の記述にどのような枠組みを用いるか、という点が問題になるであろうと 思いました。「Aという場面で、Bという助詞が用いられ、Cという音調が用いられていた」とする時に、やはり一番解釈が割れそうなのが「A」の部分だと 思ったからです。
それから、いくつかの実験(あるいは調査)において、焦点が当てられている助詞は「よ」のみであった点も気になります。他の助詞は大丈夫なのか、なぜ「よ」なのか、などの疑問が沸きました。
最終的な目的として、Bradford(1988)の”Intonation in Context”のようなものを作る、という点が楽しみな点であります。

修道大学の岡田あずささん
岡田さんは、「シャドウイングを通して再生された英語学習者の音声分析‐イントネーションに焦点をあてて‐」と題して、調査結果を報告した。大学生にシャ ドウイングを用いた指導を半期行い、録音した音声がどれだけ英語母語話者による音声に近づいたかを考察したものであった。
シャドウイングしながら録音したものが英語母語話者と同じかどうかを確認しており、実際大学生が自由発話などで話した ときに練習したイントネーションを保持しているかどうかについては明らかではない、という点は今後の課題と言えましょう。この点については、勉強会でも述 べた通り、徐々に発話の自由度を上げていくことで段階的に大学生の音調習得が明らかになると考えます。
最近、英語教育の実践においては、シャドウイングは多く用いられているようです。もちろん、通訳技術向上のためのもの をそのまま用いているわけではなく、音読と混ぜて使っているパターンが多いのではないでしょうか。つまり、本文の理解をしてから、あるいは本文を見なが ら、CDや範読に合わせて声を出す、というものです。

東京外国語大学(学生)の石崎清子さん
石崎さんは、bath-wordsの音声変化について辞書を基に考察したものを提示した。
辞書の版を基にその変化の変遷を見ていく、ということで、版と版の間に起こったことの変数が多すぎるであろう点が、発表時にもみなさんから出た懸案となりました。変化の理由には、背景に様々なものが介在するだろうからです。

2003.02.23(達人セミナー参加備忘録)

今回の達セミで私が感じたことを大きく2つでいうと、1)入力の訓練、2)教師の側の研鑚、となりそうです。
1)入力の訓練
ICCの鹿野氏による講演は、何度も音読を(飽きさせずに)繰り返すことで、「音→文字→絵」を繋げる(=にすると氏 は述べていました)ことになる、という言には納得できるものでした。そして、その講演での技法を中学校現場である程度実現したのが次の川村光一先生の弾丸 インプット、超弾丸インプットだったと思います。そこに、情意的側面をプラスしていたのが、English SalonやChain letterという活動になっていたと思われます。

2)池岡先生の電子辞書の指導
テクノロジーが教師を追い越して、しかも教室で教具として入り込んでいる状況には、なんらかのケアが必要である、と感 じた。でもいつの日か、電子辞書入りのパソコン(PDAでもよいけど)を持ってきて、「ノートです」と言い張る生徒が出てくるんだろうなぁと恐くもありま すが…。
今まで、そもそもの辞書指導が行われていたかどうかは定かではないが、こうした指導は必要であるように思う。ともかく、現在の教師において、こうしたメディアの使用方法をきちんと理解した上で、その使い方を選択肢として提示できる能力が求められるのは間違いないであろう。
今のご時世では、携帯の使い方は教師が生徒に聞いた方がいろんなことを教えてくれるのではないであろうか。電子辞書の生徒の使い方を観察し、そこから新しい使い方を学ぶことができるかもしれない、とも思った。

2002.12.06(日本音声学会第306回研究例会参加備忘録)

まずはこの例会の目的を引用します。
「言語聴覚療法学や音声言語医学など音声を脳機能、コミュニケーション機能から考える視点と、音 声学・音韻論の視点は必ずしも緊密な連携を達成できていたわけではなかった。そこで、本ワークショップでは、音声学、言語聴覚療法学、音声言語医学など学 際的な視点を交えて、言語聴覚療法学・音声言語医学は音声学になにを期待するのか、音声学から脳医科学や療法学への期待があるとすればそれは何か、両者は 互いにどんなインパクトを与え得るのか、を検討し新たな進展の可能性を探索する」
まず、私の能力不足から発表全てを理解できていないことがあるが、少なくとも、
1)「脳機能地図を描くこと」が現在の脳研究において目的となっている、
2)1)の目的を達成する材料、あるいはタスクとして音声が用いられている、
という2点ははっきりしたように 思えます。1)に関しては、ある症状が見られて、その原因と考えられる脳の損傷部位を確認することから、その部位の機能を特定するという手法が長らく取ら れていたことからも明確だと思われます。最近では、それだけではなく、健常者に対してもあるタスクを課すと脳のどの部位が賦活するかを確認することで、脳 の機能を特定することができるとのこと(発表中「コネクショニスト・アプローチ」を言っていた気がします)。1つ目の全体の概観を除いて、4つあったワー クショップ発表のうち、3つがこうしたアプローチによるものであったと考えられます。当然のごとくと言いますか、ごくごく自然科学的アプローチでもって、 脳機能にアプローチしているのを肌で感じた気がします。ずっと頭を巡っていたのは、「こうした研究と言語『教育』はどこで絡んでくるのだろうか?」という 問いです。
2)に関しては、前川喜久雄先生の発表の中での発言で、非常に印象に残っています。言語学・音声学の研究によって明らかにされて いるものを刺激として用いている、つまり主知的な意味結合をしている離散的な刺激を用いている、とのことでした。結果的に前川先生の分類するところの「パ ラ言語」は現在の脳研究の射程には入っていない、との主張でした。ただ、前川先生の行ったパラ言語情報の判断タスクが脳研究で使われていても全く不思議で はないような気がしました。ある発話によって、疑念、驚き、などのパラ言語情報を受け取る場合の脳の活動状況を記述することで、新たな機能地図が描けるの ではないかと思いました。もしかしたら、すでにこうした研究は行われているのかもしれませんが。
ワークショップとは関係なしに、今回前川先 生が紹介したパラ言語情報の判断課題に関しては、私自身のやっていることとかなりの重複があるので非常に面白く聞きました。発話上のパラ言語情報の影響に 関しては田窪、他(1998)の前川先生担当箇所において説明されていましたが、それに対する判断課題を行っており、結果としてよく判断されることが分か りました(さらに非母語話者は困難であったことも分かりました)。
2つ気になった点を記しておきますと、一つ目はパラ言語情報の記述をどの ように行っているのか、という点が私としては気になるところでした。「中立」、「感心」、「疑念」、「落胆」という4つが用いられていたのですが、それら はどこから来て、どのように記述されたのか、という点です。私自身この点については苦労した結果、発語内行為を記述している先行研究(結局はAustin やSearle、イントネーションと絡めたTenchになりましたが…)を基にするということで落ち着きました(本当に落ち着いたかどうかは別として)。 二つ目は、パラ言語情報によって影響を受けているのは超分節音素だけではないということです。パラ言語情報によって、ピッチやアクセントが変化していた訳 ですが、それだけではなく母音の音色なども少なからず影響を受けていた、という点です。この辺りは、音声の連続的な特徴ゆえ、分析の非常に難しくなるとこ ろだと感じました。私自身の調査においても、発話におけるピッチのみで発語内行為を認識、伝達できるわけではないことは明らかとなっています。そのため、 今後はアクセントの動き、母音、なども加味して再分析を行う必要があるのではないかと改めて考えさせられました。
と、ここまで書いたら、な んか脳がどっかいってしまった感がありますが、全体として面白かったんですが私の能力ではうまくまとめきれないということがあって自分のことに引き寄せて 書いてしまいました。もしよろしければ他の方(16.12.2002)
と、上で感想を求めるコメントを書いたら(別にそれが原因ではなかったが)、田中さんが「会後感」を記していました。そちらもご参照下さい。