2003.02.23(達人セミナー参加備忘録)

今回の達セミで私が感じたことを大きく2つでいうと、1)入力の訓練、2)教師の側の研鑚、となりそうです。
1)入力の訓練
ICCの鹿野氏による講演は、何度も音読を(飽きさせずに)繰り返すことで、「音→文字→絵」を繋げる(=にすると氏 は述べていました)ことになる、という言には納得できるものでした。そして、その講演での技法を中学校現場である程度実現したのが次の川村光一先生の弾丸 インプット、超弾丸インプットだったと思います。そこに、情意的側面をプラスしていたのが、English SalonやChain letterという活動になっていたと思われます。

2)池岡先生の電子辞書の指導
テクノロジーが教師を追い越して、しかも教室で教具として入り込んでいる状況には、なんらかのケアが必要である、と感 じた。でもいつの日か、電子辞書入りのパソコン(PDAでもよいけど)を持ってきて、「ノートです」と言い張る生徒が出てくるんだろうなぁと恐くもありま すが…。
今まで、そもそもの辞書指導が行われていたかどうかは定かではないが、こうした指導は必要であるように思う。ともかく、現在の教師において、こうしたメディアの使用方法をきちんと理解した上で、その使い方を選択肢として提示できる能力が求められるのは間違いないであろう。
今のご時世では、携帯の使い方は教師が生徒に聞いた方がいろんなことを教えてくれるのではないであろうか。電子辞書の生徒の使い方を観察し、そこから新しい使い方を学ぶことができるかもしれない、とも思った。

2002.12.06(日本音声学会第306回研究例会参加備忘録)

まずはこの例会の目的を引用します。
「言語聴覚療法学や音声言語医学など音声を脳機能、コミュニケーション機能から考える視点と、音 声学・音韻論の視点は必ずしも緊密な連携を達成できていたわけではなかった。そこで、本ワークショップでは、音声学、言語聴覚療法学、音声言語医学など学 際的な視点を交えて、言語聴覚療法学・音声言語医学は音声学になにを期待するのか、音声学から脳医科学や療法学への期待があるとすればそれは何か、両者は 互いにどんなインパクトを与え得るのか、を検討し新たな進展の可能性を探索する」
まず、私の能力不足から発表全てを理解できていないことがあるが、少なくとも、
1)「脳機能地図を描くこと」が現在の脳研究において目的となっている、
2)1)の目的を達成する材料、あるいはタスクとして音声が用いられている、
という2点ははっきりしたように 思えます。1)に関しては、ある症状が見られて、その原因と考えられる脳の損傷部位を確認することから、その部位の機能を特定するという手法が長らく取ら れていたことからも明確だと思われます。最近では、それだけではなく、健常者に対してもあるタスクを課すと脳のどの部位が賦活するかを確認することで、脳 の機能を特定することができるとのこと(発表中「コネクショニスト・アプローチ」を言っていた気がします)。1つ目の全体の概観を除いて、4つあったワー クショップ発表のうち、3つがこうしたアプローチによるものであったと考えられます。当然のごとくと言いますか、ごくごく自然科学的アプローチでもって、 脳機能にアプローチしているのを肌で感じた気がします。ずっと頭を巡っていたのは、「こうした研究と言語『教育』はどこで絡んでくるのだろうか?」という 問いです。
2)に関しては、前川喜久雄先生の発表の中での発言で、非常に印象に残っています。言語学・音声学の研究によって明らかにされて いるものを刺激として用いている、つまり主知的な意味結合をしている離散的な刺激を用いている、とのことでした。結果的に前川先生の分類するところの「パ ラ言語」は現在の脳研究の射程には入っていない、との主張でした。ただ、前川先生の行ったパラ言語情報の判断タスクが脳研究で使われていても全く不思議で はないような気がしました。ある発話によって、疑念、驚き、などのパラ言語情報を受け取る場合の脳の活動状況を記述することで、新たな機能地図が描けるの ではないかと思いました。もしかしたら、すでにこうした研究は行われているのかもしれませんが。
ワークショップとは関係なしに、今回前川先 生が紹介したパラ言語情報の判断課題に関しては、私自身のやっていることとかなりの重複があるので非常に面白く聞きました。発話上のパラ言語情報の影響に 関しては田窪、他(1998)の前川先生担当箇所において説明されていましたが、それに対する判断課題を行っており、結果としてよく判断されることが分か りました(さらに非母語話者は困難であったことも分かりました)。
2つ気になった点を記しておきますと、一つ目はパラ言語情報の記述をどの ように行っているのか、という点が私としては気になるところでした。「中立」、「感心」、「疑念」、「落胆」という4つが用いられていたのですが、それら はどこから来て、どのように記述されたのか、という点です。私自身この点については苦労した結果、発語内行為を記述している先行研究(結局はAustin やSearle、イントネーションと絡めたTenchになりましたが…)を基にするということで落ち着きました(本当に落ち着いたかどうかは別として)。 二つ目は、パラ言語情報によって影響を受けているのは超分節音素だけではないということです。パラ言語情報によって、ピッチやアクセントが変化していた訳 ですが、それだけではなく母音の音色なども少なからず影響を受けていた、という点です。この辺りは、音声の連続的な特徴ゆえ、分析の非常に難しくなるとこ ろだと感じました。私自身の調査においても、発話におけるピッチのみで発語内行為を認識、伝達できるわけではないことは明らかとなっています。そのため、 今後はアクセントの動き、母音、なども加味して再分析を行う必要があるのではないかと改めて考えさせられました。
と、ここまで書いたら、な んか脳がどっかいってしまった感がありますが、全体として面白かったんですが私の能力ではうまくまとめきれないということがあって自分のことに引き寄せて 書いてしまいました。もしよろしければ他の方(16.12.2002)
と、上で感想を求めるコメントを書いたら(別にそれが原因ではなかったが)、田中さんが「会後感」を記していました。そちらもご参照下さい。

2002.11.20(広大附属での教育研究大会の備忘録)

先週、広島大学附属中・高等学校にて行われた教育研究大会1日目に参加した。ここのところなんだかんだと英語の授業を観る機会が無かったことと、自 分の非常勤先での授業での悶々としたものとの接点が見出せれば、というのがその理由である。まぁ同級生と会う、というのもありますが(そっちがメインと言 われそうですが…)。
中3、高1と連続した学年の公開授業が行われた。以下では、順に概要と私の気付きを述べることにする。また協議会中、指導の体系性に関する指摘が出たが、これについては後ほど触れることとし、以下では授業を切り取って見た人間としての気付きに留める。
中3の授業では、ノルマの教科書指導を終えた後に、「障害者に障害を与えてしまうちょっとしたもの」に関する スピーチの指導を行っているものであった。公開された授業では、スピーチの発表の際、必要となる間、リズム、ジェスチャーなどに気付かせ、中でも英語らし いリズムに着目させ各自のスピーチ原稿を練習させるというものであった。
一人の生徒に、まず一度準備したスピーチを読ませ、よかった点などを考えさせる。その後、スピーチコンテスト のビデオを見せ、それに近づけるにはどうすればよいかを考えさせる。この時に、音声的要素、非言語的要素、内容と分類しながら生徒から意見を集める。今回 は、音声的要素の中でも英語らしく話せるためにリズムに着目することとし、特に内容語、機能語への強弱配分が焦点化された。その練習をある程度した後(実 際はできなかったが)、最初に出た一人の生徒にもう一度読ませる、というところで本時は終了した。
気付きとして、まず個人的な好みなのかもしれないが、「気付かせる」作業が全体的に少なかったように思う。英 語のスピーチで英語のリズムに気付かせる作業(簡単なものでは教員が日本語的に、英語的に読むだけでもよいかと)が加わるだけで実感を伴うものになるので はないかと思った。それから、リズムを扱う上で、内容語、機能語に焦点が当てられた。後から聞いた話では指導者も分った上での焦点化とのことでもあるし、 好みの問題かもしれないが、やはり「話手の言いたいこと」が焦点化される点に気付かせてもよかったのかなぁと思った。生徒の意見を聞いた時に、「バリアの 場所」と言っていたが、これを取り上げずに品詞で処理をしようとしてしまった点はもし「言いたいこと」に焦点化していれば最高の意見だったのに、と思っ た。
また、内容語、機能語に焦点を当てることによっての弊害も考えられます。よくある定時性を考えて例えばメトロ ノームやリズムマシーンを用いること、についても同じですが、過剰適用して余計に不自然になることもあるのではという指摘もある。もちろん学習段階なのだ から、それがあってもよい、あるいはそれがあるうちはまだ十分に学習できていないんだ、と捉える向きもありますので、それでもよいとも思います。しかし、 「一区切りに一つ強く長く高いところがある」、換言すると、「トーンユニット(その他同意語)の中に主調子卓立が一つ」というぐらいに考えるのはどうだろ う、と思います。
この考えに立つと、今回しなかったことが幾つかあります。それは、作成したスピーチ原稿に記号などで書き込ま せることがなかったこと、それからスピーチ原稿を区切らせなかったこと、です。前者はまぁ統一した記号を用いるか否かは好みの程度によるとしても、どのよ うな調子でどう言うのかをきちんと記号付けさせる必要があったと思います(ただし、今回は内容語に丸なし四角なりは付いたわけですが)。後者は、一区切り の中に一つ特に強く長く高い箇所を見つける上では大変重要だと思いますし、ひいては英語らしいリズムを実現する上でも重要かと思います。
さ て、高1の授業では、Readers’ Digestから作成した自主リーディング教材を用い前時までに内容把握をある程度した上で、本時ではその要約を作成するというものであった。要約作成に あたり、100語程度で、という目標を設定し、それを達成するために10の質問を用意していた。それらへの答を結びつけるとほぼ要約になる、という寸法で ある。「ほぼ」となっているのは、各答がきちんと結びついておらず、文の主人公、対象物、文と文とのつなぎ、などを調整する必要があるからで、ここについ ても焦点が当てられている。要約作成後、生徒同士で読み合い、評価まで行う予定であったが、残念ながらそこまでの時間がなかった。
気付きと して、まず思ったのが、「手厚すぎないか」ということでした。10の質問を板書するのはよいとして、それに全て答えさせて、それに対する回答(あるいは解 答の方がこの場合よいかも)を板書していました。2、3個やって、あとは生徒で、というわけにはいかなかったのだろうかと思いました(実践もろくにできな い人間のつぶやきですのでどうかお気になさらず)。
もう一つ「手厚いなぁ」と思ったのが、各答を結びつける際、つなぎを考えないといけない し、難しい単語などは別の言い方をするわけですが、それにしても逐一教えて板書していた点です。要約のバラエティが出なくなるのでは、と思ったので、そう なると後ほどの評価での面白みが出ないかも、と考えたからです。ここまで書いて、自分が「気付き」志向の人間だなぁと思いましたので、これらの点はかなり 各人の好みによると思われます。
また、授業のほぼ全てを英語でこれだけの内容をこなしていたのには正直すごいなぁと思いました。
協議会で指摘されていた点ですが、10の文から要約を完成させる、というボトムアップよりも、読んだ文を数語で、1文で表してみようというトップダウンの方がいいのではないか、という点には、選択肢の一つとして同意するところでした。
そ れから、指導の体系性に関して、例えばスピーチだと中1時点の自己紹介から、今回のようなスピーチまで継続的に行っていて然るべきでは、という指摘があっ た。確かに、1年次から継続的に体系的に行うべきであろうと思われる。とは言え今回の授業が「ノルマの教科書指導を終った後」で行われ、また「1、2年次
に既に出ているかもしれない事項をスパイラルにかつ明示的に、さらにはメタ言語知識を養成するものとして」、行われた可能性を考えると、この指摘には若干 の留保の必要があるのではないかと思いました。
点で考えるよりも線で考えた方がよいというのは、ごくごく当然のことのようですが、「どの線」に乗っているかを判断した上でのことだろうと思いますので、こうした点は自分に言い聞かせておきたいと思いました。(20.11.2002)

2002.09.24(第7回日本英語音声学会全国大会の備忘録)

今回の研究大会の中でも一番大きな目的としては、今井邦彦先生の講演である「関連性からみたintonationとparalanguage」で あった。話手は伝達内容全てを言語化するわけではなく、聞き手はそれを推論してお互いに理解をしている点から、その推論過程において「関連性の原理」が機 能していることを指摘した。その「関連性の原理」が機能する上で、発話をどのように処理するかを手助けするものの一つ(手続が記号化されたもの)としてイ ントネーションがあると述べられた。これまでの「音調-意味」の分類(O’Connor and Arnold)における矛盾を解決する上で、下降調をデフォルトとし、上昇は「判断留保」であると設定した。こうしたイントネーションの記述を例を用いて 解説した。という感じが全体の概要になるでしょうか(まとめ下手で申し訳ありません)。
私が最も引っかかったのは、「これまでのイントネー ションへの接近法には矛盾が見られる」ため関連性理論による接近法を取った、という点である。果たして「矛盾」しているのであろうか、というのが私見であ る。実際、関連性理論に基づいた接近法を用いたとしても、これまでの「音調-意味」よりは広くは扱われているものの、ある種の中核的な意味を音調に付与し ている点は変わらないのではないかと感じる。下降調には初期設定的な意味を付与し、上昇調には判断留保の意味を付与するのは中核的意味なのではないであろ うか。つまり、関連性理論を用いた今井先生の接近法は、これまでの接近法の1段階階層が上になるにすぎないのではないか、ということである。まぁ重箱の隅 をつつくような指摘ではあるような気もしますが…。テイラー(1995)のように中核的意味を否定して、メタファーで処理しようとする方法もあるようです が、中核的意味の方が(教育的には)必要であると思われます。
さて、もう一つ私の興味を引いたのは、”Japanese learner’s emotional cognition and prosodic correlates of English intonation”という発表でした。というのも私の研究とかなり似ているからであります。英語母語話者によって感情を込めて発せられた発話を日本人 英語学習者がどのように認識するかを多肢選択方式によって判断するというものである。また、感情を込めて発した発話と感情を込めなかったものとの音響的比 較を行った(英語母語話者による発話)。前半部分の結果は、私の調査の結果と比較的近いものであった。”disbelief”、 “joy”、 “doubt” などは高い認識率を示しており、 “sarcasm”、 “anger” においては低い認識率であった。これは、私の調査における「驚きを表す」において高い認識率を示している点、「注意・警告する」において低い認識率であっ た、という点と近似しているなぁと感じました(万が一詳しくをお知りになりたい方は、publicationの2と10の論文をご参照下さい)。たまたまこの発表に来ていた学部生の方が実は私の調査の被験者で、「同じよ うなことをさせられたなぁ、と思って聞いてました」なんて言われました…。後半部分は、英語母語話者による感情を込めたものと込めていないものとの対比に よる分析ですが、なぜそれを行って提示したのかは分からなかったです。というのも、前半の認識調査で感情を込めていないものも提示しているとすれば、違い が出て、音声資料の違いによる認識の違いが分析できたかもしれないですが、それをしていないようでしたので、そこが残念でした。2つの別個の調査をしたか のように受け取れてしまったからです。
それから、質疑応答でやはり出たのが、音調だけが感情認識の要素ではないのではないか、なのになぜ単 文を提示したのかという点、感情の記述には問題はなかったのか、という点でした。どちらも自分にグサリと刺さるものなので心して聞いていましたが、やはり 納得する答えは得られませんでした。この点はずっと付きまとうと思いますのでこれからも考え続けなければならないと思います。私の調査では、前者に関して は、対話文を提示するという形を取り、可能な限り音調の違いによって意味が変化するものを選択することにしました(Brazil et al.(1980)とRoach(2000)の援用)。後者に関しては、どうしても恣意性が付きまとう感情の記述を避け、発話行為理論を援用し可能な限り の記述によってその点をクリアにしようとしました。このあたりをどう考えているのかを聞くことができればよりよかったのですが、時間もなかったし、発表後 に話を聞くこともできなかったのは残念でした。
もう一つ、興味深かった発表は、南條健助先生による「英語発音辞典として『研究社新英和大辞 典』第6版を読む」であった。『研究社新英和大辞典』(以下『新英和』)が英米の発音辞典と比較しても遜色がない点、さらには収録語数で上回っていること からそれらよりも上を行く可能性があることを指摘した上で、『新英和』に見られる改善可能な点を指摘する、という発表であった。
様々な最新の発音上の変化、あるいは表記上の変化等を踏まえ、『新英和』の改善可能性を探るものであった。最新の発音上の変化事情などを非常に興味深く聞きました。
methodological optionという言葉もキーワードとして残ったものの一つでした。(この点については、もう少し膨らませて後日書きたいと思います)(24.9.2002)

2002.05.28(日本英語音声学会関西・中国支部第5回研究大会@備忘録)

今回の目的はまず、シンポジウムである「英語教育における音声学の役割とその手法」であった。昨年のシンポジウムでもパネリストであった南條健助先生や豊島庸二先生に加え、山本武史先生、中島直嗣先生がパネリストであった。
シンポジウムを受けて直感的理解として私が持ったのは、音声学の知識、知見の応用例を提示するというものであった。 で、実際にそうであったと思われる。「応用」はつまり「記述・原理原則の伝達」と考えられているのではないかということであった。いずれのパネリストの述 べる音声学的記述や原理原則に関しては、「確かにその通り」と思えるものが多く大いに納得はするのだが、はたと「何をどこまで言って(指導して)、どうや るんだ」という疑問の内、「何を」の部分にのみ答えが出ていないということに気付いた。今日主張された全てを学生(あるいは生徒)に伝えることは果たして 有効なのか、ではどうやって伝えるのか、ということに関しては今後検討する必要が大いにあると思われる。
南條健助先生の発表は、「ほうほう」と頷きながら聞いていた。先生のきれいなアメリカ発音や時折見せるイギリス発音 に、うらやましいなぁと思いながら聞いていた。まずカナ標記についてはわかり易い説明がなされ、島岡先生との違いが明確になっていた。そして本題のリスニ ングにおける原則10であるが、これに関しても頷きながら聞いていたが、それらの原則を「選ぶ原則」とは、という疑問が浮かんだ。こうした「リスニングの 原則その10!」みたいな類書はたくさんあるが、それらを提出する際の音声学的原理原則、また選択の際の原理原則に関してきちんと整理したものを今のとこ ろ見たことがないように思える。今後のネタとして使えるだろうか。
そして、他の発表はちょっと飛ばして(自分がキチンとついていけなかったのが中心的理由です。好みとかはまったくない です。)、自分の興味の所在上、「英語教育における音律理論の応用」について少し考えてみたい。音読などを行う際に注意すべき点として、1)文の区切り、 2)文強勢の位置、3)調子の選択と意味、の3つをミニマムエッセンシャルズと設定し、それぞれの背景理論を解説した発表であった。まず、1)の区切りに ついては、これまでの研究において音調の単位を設定することに困難を覚えていることに触れ、統語構造とのある程度の一致を根拠に教育的には統語構造を基に 考えることを提案している。また、リズム群としてfootを用いることが有効であると考えており、統語構造と合わせてHallidayの枠組みを用いる有 効性を論じていた。2)の文強勢の位置に関しては、主語や目的語の方が動詞よりも強勢を受ける、という原則や音調群の最後の語彙項目が強勢を受けるといっ た原則などが用いられると述べていた。そして、3)の音調に関しては、基本的な上昇、下降を取り上げることとし、その意味合いには今井(1989)の断 定、判断保留を用いることとしていた。
と、これらを聞いて一応スッと腑に落ちたように思った。高校生、大学生あたりにはこうした感じでいけそうやなぁと思え た。しかしながら、以前「どのように」という問題は残る。しかし一番この音律の発表が「だれに」、「何を」、「どの程度」という面がはっきりとしていたよ うに思われる。理論的な進展と、教育項目として提示したものとの乖離がどの程度だったのか、をこうした音声プロパーの方々に伺うべきだったかと思われる。 惜しいことをした。
他の発表について思ったことを少し。発音記号の導入による音声認識の向上に関する発表に関して、発音記号を導入したから、という因果関係はなかったように思えるし、発音指導を行ったら音声認識が上がったということではないのかなぁと。
また、音声合成による強勢の位置の認識に関する研究もあった。やはり英語母語話者はきちんと強勢を認識しているようで あることが分り、納得した。語末は音声合成の不利な点が出たため、若干の認識の低下が見られたが、自然降下と変化の度合いが変われば恐らく高い認識度で あったことであろう。ここで思ったのは、じゃあ意図などの情報はどうなのかなぁということで自分のことを思い直すいいきっかけになりました。
最後の講演は私少しグロッキーでした。ごめんなさい。でも、プロソディーの各要素を上手く統合していきましょうよ、という話に関しては理解できたし、同意する内容であった。